水よ語れ 原風景を失うとき
水について。それも生き方の根源にかかわっての論議が今日ほど沸騰した時代は、かつてなかった。文化は人間の知恵の所産のはずであったが、それも怪しげなものであったことが分かってきた。
湧水でさえ飲めないことを知って、その所産なるものが精神風土の破壊につながるものであったことが、次第に明らかになり、水なしには暮らせない一人ひとりが、「これは、ただごとではない」と気付きはじまたのだ。
そして世は、コンクリート三面張りに象徴される治水一点張りの時代は去って、「砂防も文化だ」と砂防の陣頭に立つ人をして、言わしめう時代を迎えた。
水は、生きて行くための生活世界と、不可分のつながりを持つものであるが、泉を思う、釣を楽しむ、水辺に遊ぶ、水の信仰(水乞い、水神様など)源流への思慕、河口への憧憬、水にまつわる言葉(水いらず、水くさい、水をあける、水をむける、水に流す、湯水の如く、水かけ論、水の泡、水をさす、水もの、水増し、水際立つなど)などを想うとき、精神世界や原風景とも、深いつながりを持つものであることが知られる。
人の生活は、自然や神との共生、あるいは畏敬するものの中にあるが、水は自然にも、神にも所属して、計り知れなく大きい。飲める水(川)がなくなったとき、その地域はそれまでの生き方と、これからの生き方について、人間存在の根源的なところへ遡って、問われるのだ。
水道が普及し、水は蛇口からのものとなってから、いわば汲むことを忘れた生活をするようになったその日から、水の恩恵を肌で知る機会を失ってしまったと言われる。水は、天からのだけのものではなく、大地の産物であることの実感から遠ざかってしまたのだ。
日本の現状は、水の原風景を失うことによって、精神の枯渇をも招いているのだ。水は、そこの住む人によって共生の思想を奪われ、さらさら歌うことを忘れてしまった。繰り返して言えば、水に臭気を漂わせるのも、蘇生させるのも、人の知恵の結果によるものなのだ。白馬村在住 民俗・思想史研究家 田中欣一
「わさびーず:21」後援会誌 創刊号から
Naturalian
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クリア・ウオーター・リバイバル
水につながるふるさと
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