クリア・ウオーター・リバイバル 源流保護運動

 今から25年前、ハドソン川上流の企業がカドニウムをたれ流し、大汚染を引き起こした。心を痛めた多くのアーテイストたちは、ピート・シーガーを先頭にイデオロギーを越えて音楽で水を浄化しようと、大音楽会を企画し、その売り上げ金額をすべて浄化のために寄付した。この音楽祭は「クリア・ウオーター・リバイバル」と呼ばれ、今年で15年目を迎える。

クリア・ウオーター運動への思い■ 「わさびーず:21」主宰 堀 六平

  水への愛着は語り尽くせない。
 私の生まれ育った信州安曇野は、日本のほぼ真ん中にあって西にそびえる日本アルプスの雪解け水や山々から流れ出る清流が伏流水となり、一度地にもぐってまたわき出る湧水群地である。特産の山葵(わさび)は山間の清流にもともと原生していた植物で、とにかく水のきれいな所にしか育たない。またカジカというハゼ科の淡水魚は、清流の象徴のような川魚で、食すとこの上ない美味しさが定評であるが、すでに過去形で話さないといけない状態なのである。絶滅とも上流でひそかに生きているとも言われて30年にもなろう。

 我々の子供の頃は、この頃になって考えると素晴しい自然の楽園であった。思えば川からカジカや鮎、川海老やトンボのヤゴなどが姿を消していったのは農家から有機栽培の稲作が消えて、化学肥料がわがもの顔で歩き、灯油をたいて促成栽培を始めて、季節はずれの瓜や西瓜や苺が出現し、人々の情操をお金で換算しはじめた頃と同じ頃である。

 若者たちは、都会に憧れて飛び出し、東京からの一方通行の情報は、電波を通じてどんどん入り込み、文化生活の何たるかをけたたましく論じている。やがて現金収入が所得倍増の生活をするためには必須条件となり、都会では鍵っ子を残し、田舎では田畑を残して父や母は町の工場に出て行った。
大量生産、大量消費、道徳や優しさの失われた、節度に見境のない、ばらばら時代がやってきたのだ。当時、自然の存在や特に水が命と、文化の源であることを誰が考えたであろうか。それには少し時間が必要であった。

 時が移り、各地で公害の騒ぎが起きはじめた。わたしらが仕事で東京へ行くと、決まって独特の都会の臭いの中で頭痛に悩まされたものである。それはやがて、大きな社会問題を引き起こしていった。工場地帯の空は灰色に曇り、色の変わった太陽はじつに不気味だった。私はどこかに行ってしまった蛍への思いや情操の失われていく人々の姿が寂しくて・・・あちらこちらで下手なギターをかかえて歌ってきた。しかし決定的に自分の熱い思いが意識できたのは、アメリカでのクリア・ウオーター運動に触れてからであった。

 ニューヨークは世界の都である。始めての渡米で見るものすべてに目を丸くしていたが、実はここでも川や自然が大きく病んでいることを知った。国は違っていても自然への思いは同じである。この国も川や水辺は子供たちの楽園であり、心の安らぐ場所である。それがどうだ。上流の心ない企業の流すカドミウムがニューヨークの河口とするグレートハドソン川を蝕んでいたのだ。我々の世界では神様といわれる世界的フォークシンガーは、この川を救おうと立ち上がった。時に60才・・・6月の第2週の土、日に10万人を動員するニューヨークのクリア・ウオーター・リバイバル音楽祭がこれである。ここでは売上げのすべてを川の浄化のために寄付をして14年になる。私はこの模様を目のあたりにした時、川を守ろうとする人々のパワーに涙がでるくらい感動した。一人で愚痴っているだけでは何も解決しない。今こそ音楽を媒体にして多くの心ある仲間とともに源流を守っていこう、とその時はっきりと決めたのだ。自然保護についてはその解釈にもいろいろ問題がある。自然の中の自然保護か、それとも人々が関わって共存していこうとする自然保護か意見は多い。見渡せば長良川の河口堰の問題や諏訪湖の浄化の問題、各河川の汚れの問題もあげれば話しは尽きない。

 日本の源流の8割近くが、信州にあることを知っている人はまだ少ない。また腐葉土のできる広葉樹の山が、経済的効果を優先させた植林により針葉樹に変わり、その面積がじつに日本の山林の4割を占めている。・・・そしてなぜかその沢には岩魚がほとんど住まなくなった。・・・こんな現実を知っている人はもっと少ない。本当の源流の大切な意味をどのように知らせてあげようか。私は源流保護運動への思いは尽きない。

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水よ語れ 原風景を失うとき
安曇野から Naturalian宣言

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